アメトークの読書芸人を観た事のある人ならば知っていると思うが、中村文則さんの小説の中に『教団X』という作品がある。
番組の中で大絶賛されていたこともあり、多くの人が手に取ってこの本を読んだことだろう。
特徴的な装丁や壮大さを感じさせるタイトルは多くの人間の興味を引き、かなりの部数が売れたようだ。
ところが、この作品は売り上げに対して、多くの批判の声も聞こえてくる。
もちろん多くの人間の目に触れれば相対的に批判は増えるものだが、その量があまりにも多い。
「つまらない」
「意味が分からない」
「作者の自己満足」
「性描写が下品」
などなど・・・。
人によっては「時間を返せ!」と怒り出す人までいる始末だ。どの本を読もうがそれは個人の自由意志なのだが、笑。
いったい何故そのようなことが起こるのか?
今回は、そのような現象の解明と作品のネタバレ感想を書いていきたいと思う。
教団X
あらすじ
ふたつの対立軸に揺れる現代日本の虚無と諦観、危機意識をスリリングに描く圧巻の大ベストセラー! 突然自分の前から姿を消した女性を探し、楢崎が辿り着いたのは、奇妙な老人を中心とした宗教団体、そして彼らと敵対する、性の解放を謳う謎のカルト教団だった。二人のカリスマの間で蠢く、悦楽と革命への誘惑。四人の男女の運命が絡まり合い、やがて教団は暴走し、この国の根幹を揺さぶり始める。神とは何か。運命とは何か。絶対的な闇とは、そして光とは何か。宗教、セックス、テロ、貧困。今の世界を丸ごと詰め込んだ極限の人間ドラマ! この小説には、今の私たちをとりまく全ての“不穏”と“希望”がある。テレビ番組で読書芸人にも絶賛された著者の最長にして圧倒的最高傑作がついに待望の文庫化!(引用|amazon)
怪しい教団が出てくると、警察や探偵組織が登場してその巨悪を暴いていくようなストーリーを想像しがちだが、この作品ではそのような定型的な出来事は起きない。
特に正義と悪という構図が強く押し出されているわけでもなく、なんとなくストーリーが進んでいき、大きな事件は起こるものの特にスカッと解決するような結末が待っているわけでもない。
言ってしまえば、
何となくモヤモヤするストーリーがずーっと続く物語
といった感じ。
しかし、この作品は”ストーリー”に重きを置いた作品ではないのでそれも仕方ない。
ストーリーとは、例えるなら道の変化のようなものだ。
用事があってどこかに向かう時、スタートからゴールするまでに右に曲がったり左に曲がったりするような道筋の変化が、小説で言うところのストーリーだ。
ストーリーを楽しむことは、まっすぐ進むと思ったら急に曲がったり、行き止まりになることを楽しむということになる。
それに対してこの作品は道筋の変化はそれほどないのだが、道の途中で立ち寄った花屋の花が綺麗だったとか、裏路地で野良猫があくびをしていたというような寄り道部分に魅力がある作品なのだ。
物語の最終的な着地点がぼんやりしている印象を受けてしまうかもしれないがそれも当然だ。
なぜなら、地図上のゴールになんて何の意味もなくて、その途中経過の寄り道を楽しむための本なのだから。
そして普段から読書をしない人間は、途中経過を楽しむ本を読みなれていないものだ。
どうして叩かれたのか?
この作品のamazonのレビューを見てみると、作品に対して物凄く批判的な意見を書いている人が多いこと、さらに何故か怒っている人もいるという事実に驚いてしまった。
そういった批判や怒りのエネルギーは単独の理由だけではなく、複合的に様々な条件が重なったがゆえに生まれ出たものだと思う。
そこで自分なりの批判対象になった理由を数パターン考えてみた。
読書経験の問題
まず一番可能性が高いのは、
【購買者の読書経験不足の問題】
である。
アメトークで紹介されたので、普段から本を読んでいない読書経験の浅い人が手に取っている可能性が高いという点は避けられない。
また、自分ではある程度本を読んでいるつもりだったとしても、普段は推理小説やライトノベルを中心に読んでいる人だと、読んでいる最中や読み終えた後に自分のなかで咀嚼するタイプの本(純文学系)の経験値が浅い可能性がある。
そういった人たちからすると、
「何を言っているのかわからない」
とか
「作者の自己満足を見せられている気がする」
といった感想が出てくるのもうなずける。
本の長さに対する満足度問題
また普段から本を読んでいる人からすればなんてことはないが、一般的な作品よりも厚みのある長い本なので、
【その長さに対する期待値を満足させることが出来なかった】
という点も挙げられる。
上記したが、作品の終着点の曖昧さはストーリーを中心に本を読みたい人からすると、結末がないように見えるかもしれない。
物語の結末に対して明確な感想を持ちたい読者からすると、その曖昧な物語の終わり方は長い作品で味わいたかったカタルシスへの期待が裏切られたように感じてしまうのかもしれない。
その気持ちはわからなくはない。
否定も肯定もない
また、苛立った感想を書いている人は、
【何が肯定されて何が否定されているのかが読者に委ねられている】
ことに不安を感じているようにも見える。
この話が、明確な勧善懲悪で、敵が明確な復讐心で悪事を働いていて、最終的に明確に破滅する話だったら、読み終えた後に怒りの感情が生まれるようなことはないはずだ。
ところが、この作品ではその明確な部分がとても少なく、作中の良し悪しはほとんど読者が判断しなければならばい。
答えのない問題を提示されたことで不安を煽られて、その不安を払拭するために原因である作品を攻撃してしまうということはあり得ると思う。
しかし、この作品はそもそもが読者に委ねられている部分も多い小説なのだ。
ある意味では読者が信用されていると言ってもいい。
その信用に対して批判で返答する行為はとても悲しい行為だと思う。
ジャンルの広さ
さらに、この小説は
【内包しているジャンルが物凄く広い】
作品でもある。スケールの大きい作品とも言える。
作品名に教団と付くので、当然「宗教」を中心に書かれているが、特定の分野に限らず幅広いジャンルの問題を取り扱っている。
性
科学
政治的イデオロギー
戦争
哲学
世界の貧富の差
に至るまで、取り扱っている題材は本当に幅広い。
あまりのキャパシティーについていくことが出来ずに振り落とされてしまうこともあるのかもしれない。
もし途中でパンクしてしまったのであれば、その脱落の理由を自分ではなくて作品に向けてしまう人もいてもおかしくはない。
ちなみに、僕は松尾が語っていた「量子論」と「脳」の話が本当に説得力があって面白かった。
科学のジャンルである「量子力学」から「宇宙」を介して「運命」の話に転じていく様子には感動すら覚えてしまう。
科学を経由した運命論というアプローチは、納得せざるを得ない説得力を感じてしまった。
・・・といいつつも、僕の頭でどこまで理解できているかは自信がない、笑。
作品が荒らされたような感覚
上記したような様々な理由で、残念ながらこの作品は多くの人からマイナスな評価も受けることになってしまった。
しかし、僕はamazonとかで「面白くない」とレビューされているのを見つけると悲しい気持ちになってしまう。
何故なら、この作品はただそこに存在していただけだから。
例えば、
「大自然の景色が素晴らしくて楽しい場所ですよ」
とTVで特集された観光地に多くの観光客がやってきた後に、
「何もなくてつまらない場所でした。もう行きません」
とレビューされているような感覚とでも言えばわかるだろうか。
確かに大きなどんでん返しがあるような小説ではないが、その途中経過には素晴らしい風景がたくさん広がっている。
軽い気持ちで観光地を訪れて、その場所にスリル溢れるアトラクションがなかったからといって叩かないで欲しい。
元からそこにあった作品が、後から来た人たちに荒らされたような感覚になってしまう。
この本があまりにも否定されているのを見ると、ついこの作品を紹介したくなる。
『世につまらない本はない』
視野も広がるし、人生のスパンで見たときにはきっと得する本なので、気が向いたらぜひ手に取ってみて欲しい。
この世界につまらない本なんてないのだから。
性描写のエロさ
ちなみに『教団X』では、とにかくたくさんの性描写が描かれる。
凄いエロい。エロいは正義。
つまらない本などない、笑。
教団Xはいわゆる〇ックス教団と言われる組織で、とにかくずっとヤりまくっているので、その描写に嫌悪感を抱く読者もいるようだ。
けれどまぁ、この程度の性描写はまだマシな方な気もするのだが、それも個人の感覚によるところが多いので明確な線引きは難しいのだろう。
セクハラ問題と同一の問題のようにも思える。
最後に
良くも悪くも読者を選ぶ作品というものは存在する。
「美味しいお店」という紹介で入った店の料理に、大量のパクチーが入っていたからといって、その店の料理がまずいわけではない。
その料理は、人を選んでいるだけで、料理そのものに優劣はない。
だからこそ、娯楽小説としてこの『教団X』を読もうとしている人に対しては、
「この作品にはパクチーが入っているから、他の本を読んだ方がいいですよ」
と、一言助言をしてあげたい。
この作品は、パクチーが好きな人にだけ美味しいと思ってもらいたい作品なのだから。