芥川賞の選評の際、石原慎太郎に「うんざりである。」と言わしめたタイトルの作品がある。舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』という作品だ。
石原慎太郎の言い回しや性格が好きではない僕だが、うんざりと言いたくなるのも頷けるタイトルではある、笑。
しかし、ふざけたタイトルだからといって、内容がふざけている訳ではない。この作品のタイトルのポップさは、むしろ世の中に溢れる愛をテーマにした軽い作品たちをディスっているだけだ(石原慎太郎には伝わらなかったが、笑)。
『愛する人の死』をテーマにした一風変わった作品になっているので、今回はこの作品の書評を書かせてもらえたらと思う。
好き好き大好き超愛してる。
あらすじ
愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。「恋愛」と「小説」をめぐる恋愛小説。
引用:amazon
あらすじだけでは全くわからないと思うので補足の説明をするが、この小説は心から愛する恋人(柿緒)を失った小説家(治)の話と、その小説家の作品で構成されている短編集になっており、全てに一貫しているテーマは『愛する人の死』という重いものだ。
元々、片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』へのアンチテーゼとして書かれた作品なので、軽はずみに人が死んで涙を誘おうとするライトな小説へのあてつけのような内容になっており、愛する人を失った小説家・治はその体験の一部だけを抽出して違う形の小説を書いては、柿緒の弟たちから責められ続けるという展開の悲しい物語だ。
要するに、作者の気持ちを勝手にザックリ代弁すると、世の中に溢れている恋人が亡くなってしまう安易な物語に対して、
「本当に心から愛していたならば、愛する人の死をそのまま描くことなんて出来ないんだから、もっとよく考えろバーーーカ!!!」
って伝えようとしている過激な作品ということになる、笑
感想
無駄と知りながらも言うべき言葉は一つの祈りだ。
~本文より~
改行や台詞の間などが殆どなく作者の伝えたい内容が雪崩のように押し寄せてくるような印象を受ける作品で、アクセル全開で好きなように進んだ結果、「さぁどうだ、ついてこれるか!?」と挑発されているような文章になっている。
もしかすると、人によっては相性が悪いと感じる方も多く、途中で読むのを止めてしまう人もいるかもしれない。しかし、じっくり読んでいくとその傍若無人に見える文字の羅列とは裏腹に、非常に繊細な愛情についての考察が描かれている作品になっている。
また、タイトルのポップな印象が強烈で敬遠しそうになるが、内容は人の愛と死について描かれているので非常に重い。特に『柿緒』の中で、好きな人が亡くなってしまったことに、ただ涙を流して「わーん。かなしいーー」とアホみたいに泣き叫ぶのではなく、その死について深く考えるべきだという作者のメッセージを感じ取ると、その思いを真摯に受け止めたくなる。
作中作の愛の考察
小説の縦軸となる作品『柿緒Ⅰ』『柿緒Ⅱ』『柿緒Ⅲ』では小説家の主人公・治が、自分で書いて発売した小説の作品の内容について、亡くなった恋人・柿緒の弟に責められて、独白のような形で自らの考えを読者に語りかける作りになっている。どの登場人物の感情も理解でき、理解できるからこそ行き場のないその感情が苦しく感じてしまう。
その『柿緒』以外の作品では、直接的に書いている訳ではないが、それぞれ『愛と死』について書かれているので、描かれている愛についての考察を抽出して見ていこう。
『智依子』
この作品は非常にわかりやすく柿緒の病気と死について重ねている。
ASMAという虫が身体の中で繁殖する話なので、シンプルに癌の転移を連想させる作品。そして、ASMAを駆除するには身体を切除していくしかない。
ここで描かれる『愛と死』は、愛する人が病気で身体の大部分を失ってでも生きていて欲しいと懇願する感情が見守る側のエゴで自分勝手なのかという葛藤だ。愛情があるから生きていて欲しい。しかし、それでも失うことを強要してしまったら、それは相手のことを愛しているということなのだろうか?という絶望的な悩みだ。
『佐々木妙子』
この作品は夢の修理人・ミスターシスターが登場して主人公の夢を修理する物語。
主人公は一人の女性を愛して探し続けるが。愛する佐々木妙子はすでに死んでしまっており、ミスターシスターにこんなことを言われる。
P90
「佐々木妙子ちゃんは以前の佐々木妙子ちゃんとは変わってしまったんだ。死ぬと変わるんだよ。生きてた頃の性格は完全に失われてしまう。」
このセリフが僕には、死んでしまった愛する人への感情を、生きている人へ対するそれと同じように捉えることに対する警告なのではないかと読み取れた。
生きている人へ向けた愛情は、対象が死んでしまった場合にそのまま持ち続けていても辛いだけで救いはない。この物語の最後に、主人公がミスターシスターの頭をつぶすのは、その事実に抗いたいからなのではないかと思う。
『ニオモ』
ろっ骨を融合した主人公・石原とニオモが、神と戦う聖戦を描くSFショートストーリー。愛する人が亡くなったとき、残された人間があとを追って死することが愛情の深さなのかを問うような内容。
印象的な言葉としてあげたいのは、ニオモが死んでしまったときに、石原が自殺をしようとするところをエリ佳さんに止められたときに言われた台詞。
P139
「駄目だよ石原君、生きなきゃ」
「だって俺、ニオモのためにそうしてやりたいんだ」
「たぶん今君が見てんのは君の望んでいるニオモちゃんであって、それは偽物のニオモちゃんだ。君がそうしてあげたいのは本当の気持ちだけど、本物のニオモちゃんがそうしてくれと頼んだわけじゃないからね」
愛する人のあと追い自殺は、自分のエゴで幻想であるというメッセージにも読める。いくつものセリフの中で、このセリフが一番素晴らしい言葉に思えた。
残された謎
それにしても『柿緒Ⅱ』に出てきた一通目の手紙はどこへいったのか不思議だ。
ずっと考えていたのだが、もしかすると一通目の手紙はそもそも存在していなかったのかもしれないと思えてきた。『柿緒がこっそり出かけた一日』と同じように、愛する人にずっと気にかけて貰いたいという感情から生まれた、幻の一通目の手紙なのではないだろうか。もしそうならば、可愛くて残酷な行為だと思う。
最後に
恋愛感情は年齢と共に変化する。学生の頃はとにかく相手の事が好きで一緒にいたい感情であったり、社会人になってしばらくすると、相手の職業や収入や人生観を見て頭でも恋愛をしたりする。
また晩年の恋愛はきっと、人生の最後の時間に一緒にいたいと思えるかどうかが重要なのだろうと想像しているが、どんな恋愛の最中でも死は平等に訪れる出来事だ。
この作品は愛すること、祈ること、言葉を紡いで物語を作ることについて掘り下げている連作短編集になっており、『愛と死』を組み合わせた恋愛小説とは安易なお涙ちょうだい作品ではなく、こういった厳しく現実的で悲しい恋愛小説こそが本物なのではないかと思える。