僕は津村喜久子の作品が好きだ。
津村作品はいつも絶妙なバランスで、言葉にしにくい人と人の距離感を描き出してくれている。
それも、どこか脱力してしまうよう独特な文章のリズムで進んでいくので、シリアスな状況もどこか楽しめてしまう不思議な物語が多い。
中学生が主人公の小説『エヴリシング・フロウズ』も例に漏れず、じんわりと心を温めてくれる素敵な作品で、僕が中学生の頃に感じていた澱が沈んでいるような対人関係の濁りと、この作品の主人公・ヒロシのように格好いい対人関係が出来なかったという後悔を思い出させてくれた。
今回はこの繊細な作品のネタバレ感想を書いていきたいと思う。
エヴリシング・フロウズ
あらすじ
クラス替えは、新しい人間関係の始まり。絵の好きな中学3年生のヒロシは、背が高くいつも一人でいる矢澤、ソフトボール部の野末と大土居の女子2人組、決して顔を上げないが抜群に絵のうまい増田らと、少しずつ仲良くなっていく。母親に反発し、学校と塾を往復する毎日にうんざりしながら、将来の夢もおぼろげなままに迫りくる受験。そして、ある時ついに事件が…。大阪を舞台に、人生の入り口に立った少年少女のたゆたい、揺れる心を、繊細な筆致で描いた青春群像小説。(引用|amazon)
主人公の中学生・ヒロシは身長も小さいし明るい性格でもなく、胸を張って好きだといえる唯一の存在だった絵を描くことも、同級生の増田さんに負けたと思い、打ちのめされているような男の子だ。
そんなヒロシが、クラス替えで前に座ったヤザワや、絵の上手い増田、ソフトボール部の女子の野末や大土居らと接して仲良くなっていく様子が描かれていく。
「仲良くなっていく」と書いたが、別に一緒に海に行ったり遊んだりして青春を謳歌するわけではなく、人との心の距離が縮まったと感じられる人間関係がふわりと生まれるだけだ。
ただ、その関係性の変化はとてもスマートで粋な関係性に思える。
そもそもヒロシは他人と深くかかわりを持とうとするタイプではなかった。
学校でも特に思い入れのある友達もおらず、周囲のクラスメイトに対しても興味を持たず、離婚した両親の離れて暮らしている父親も特に話すこともない存在と割り切っていた。
だが、ある時その父親が亡くなったことを知る。
特に話す気もなかった父親だったが、その死がキッカケで他人に対してほんの少しだけ行動的になっていく変化の仕方は、中学生としてとても正しい気がする。
本人は父親と話す事などないと思っていたかもしれないが、実は”話したいという気持ち”だけはあったから、その後の行動が変わったのだろう。
徐々に変わっていくヒロシと友人たちとの距離は、簡単に仲良くなって悩み事を話し合うような簡単な関係性ではなく、優しさと気遣いと怯えと信頼をごちゃ混ぜにして生まれたような独特の関係性に思えるし、同時に自分も味わっていた友人関係の距離感を思い出させてくれるものだった。
ちなみにタイトルの『エヴリシング・フロウズ』の意味についても書いてみたい。
直訳すれば ”すべてが流れる” といった意味になる。
これは、中学三年生の彼らが卒業して、それぞれの道に進んでいくという時間の流れの事を示しているのと共に、そして同時に、全てに対して等距離で平等であることも表現しており、ヒロシの周囲への接し方が全方位的に平等であることを示している。
ヒロシは格好いい
この物語の主人公のヒロシは、どこにでもいる普通の中学生だが、意識はしていないものの、彼は”自分なりの答え”を常に持っているところがある。
表には強く出さないが、内側にしっかりと持った強さがヒロシの魅力なのだ。
まず、ヒロシは自分の特徴をよくわかっていて、スクールカーストの上位に対する小さな劣等感も、好きな女の子に対する接しかたの不器用さも全部理解した上で、下手に格好つけず、逃げずに抱えていく強さがある。
また、ヤザワの片耳が聞こえないことを、スクールカースト上位の糞バカ男の間中に聞かれた時も、ヤザワとの友人関係において、片耳が聞こえないことなんてどうだっていいことだと思っていて、取り合わないで聞き流していく強さもある。
たぶんヒロシはクラスの人気者だからこうだとか、耳が聞こえないからどうだとか、そんなことは関係なくて、その人間自身をしっかりと見て接しているのだろう。フラットに感じる物事の捉え方の距離であることに、とても信頼を置いてしまう。
それこそヤザワの揉め事も、大土居の家庭の問題も、自分の進路や絵の問題も、すべて等距離に感じ取って向き合っている。
それでいて他人事にならず、やるべき時には決して逃げずに向き合って行動するところも魅力的だ。
ギリギリで迷うような判断の時、おずおずとではあるが必ず誰かを助ける選択をするのも最高に格好いい。
背が小さくても無口でもヒロシは本当に格好いいのだ。
ちなみに、僕が好きなヒロシのシーンは大土居が引っ越していなくなる場面だ。
最後の別れで胸に去来する様々な思いがあったはずなのに、ヒロシの口から出たのが
「また」
という言葉だけなのが、本当にリアルでとても良かった。
これももしかしたら父親への思いと同じで
【伝えたい事は特になく、伝えたい気持ちだけがあふれ出ている状態】
なのかもしれないと思うと、おもわず泣きたくなってしまった。
大土居とヒロシの関係性は、恋愛のようでもあるし、友人のようでもあるし、戦友のようでもある。
ただ一つ言えるのは、中学三年生の頃のことを10年後に思い出すとしたら、きっとこの別れの場面なんだろうな、と感じた。上手く言葉に出来なかったとしても、この場面はきっとそんな場面なんだと思う。
最後に
ちなみにこの作品、あとがきも面白かった。そこにも僕がとても好きだなぁ・・・と感じた言葉があったので、それだけ紹介してみたい。
人間でも事件でも何でもいいのだが、ある対象にかんして一方向的な判断をしないとはすなわち明確な「意見を持たない」ことにほかならないだろう。
大体、世間ではひとびとに意見を持たそうとする圧力が少し強すぎやしないか。誰もが政治について、社会について、歴史について何がしかの意見を持ち、自らの立場をしっかりと伝えられるのが素晴らしいとされている。
本当に大きなお世話であって、断言しておくが、人間にとってほとんどのことはどうでもよく、普段はまるで何も考えておらず、ふと心が動いたとしても大抵は「肯定でも否定でもない」あやふやさが脳裡を一瞬去来するだけだろう。
(あとがきより)
この「人間にとってほとんどのことはどうでもよく」って言葉が、本当にその通り過ぎて胸に刺さった。明確な自分の意見を持つことが良しとされる世の中ではあるが、その明確さが常に正しいわけではない。
言葉にして意見を持つことは大切だが、その言葉に振り回される危険性も持つので、ある意味、ヒロシのように優柔不断のまま生きつつ、本当に大切な一瞬に、一歩を踏み出す勇気だけを持って生きれれば、人間は十分なのかもしれない。