不発弾はまだまだある?終戦75年なのに毎年どれぐらい見つかってる?

1945年の終戦から、2020年で75年が経ちました。

もう日本では平和な日常が当たり前となっていますが、戦争で使われて爆発しなかった不発弾が毎年のように発見、処理されています。

はたして戦後75年経つ現在、どの程度の不発弾が発見されているのでしょうか。

今回は、日本で見つかっている不発弾について紹介します。

不発弾はどのくらいある?

不発弾は、日本国内で製造されたものの使用されず適切に破棄されなかった爆弾や、戦時中に米軍などの部隊が日本を攻撃した際に、爆発することなく地中に埋まってしまった爆弾などのことを言います。

2018年に全国で発見・処理されている不発弾は53トン(1,480件)です。
平均すると1日約4件の不発弾が処理されていることになります。

ここ10年くらいは毎年50トン前後の不発弾が発見されていて、
1972年~2018年までに処理された不発弾量は全国で4,357トン(112,594件)になります。

これほど多くの不発弾が日本で毎年見つかっています。

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不発弾が一番多く残るのは?

日本の中でも特に不発弾が多く見つかるのは沖縄県です。
沖縄では度々、不発弾が発見されるので、見つかったとしても地元の方はそれほど騒ぎ立てません。

2018年に全国で見つかった不発弾は53トンですがうち19.7トン(37.1%)は沖縄県で見つかったものになります。

1972年~2018年までに処理された不発弾量は全国で4,357トンですが、そのうち沖縄が1805トンを占めます。
日本で発見される不発弾の内、約41%は沖縄県で発見されているということです。

不発弾は誰が処理する?

不発弾は、地方公共団体等からの要請を受けて、自衛隊が、安全化や爆破等の処理を行っています。

不発弾が発見された場合、警察から不発弾処理隊に通報されます。

この際、緊急性が高い場合は、警察から師団や旅団の司令部に要請がなされ、不発弾処理隊は、速やかに発見現場に出動し不発弾の識別や処理を行います。
危険性が低い場合は、警察が不発弾を一次的に保管し、後日、不発弾処理隊が回収し処分します。

不発弾の処分までの流れについて、最初に、不発弾処理隊が不発弾を識別・調査しますが、この不発弾の識別を正確に行うことが最も重要であるといわれています。

識別・調査の結果、不発弾の運搬が可能な場合は、回収し後日処分します。
運搬が不可能な場合は、地方公共団体と、現地で爆破処分を行うか、信管除去等を行うかを協議し決定。

最終的には、自衛隊と地方公共団体が、現地処理の日時や双方の役割分担等の協定を締結し、現地での処分が行われます。
なお、信管除去された不発弾については、不発弾処理隊が運搬・保管し処分を行います。

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どこまで知っていますか?多くの犠牲者を出した沖縄戦のこと

1941年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃をしたことから始まった太平洋戦争の末期、1945年夏には日本国内で戦禍が激しくなり、アメリカによって日本各地で大空襲が起きました。
8月6日には広島、9日には長崎が原爆に見舞われる大惨事となり、15日に降伏しました。

ということは日本人なら多くの人が知る歴史ですが、日本本土で戦争が激しくなる前には沖縄戦があり、多くの犠牲者を出しました。
毎年6月23日に沖縄戦の慰霊祭が行われています。ニュース等でその情報が流れるので、沖縄戦があったことはご存じの方も多いでしょう。しかし歴史の教科書にはあまり説明がされていなかったこともあり、詳しくは知らないという方も多いのではないでしょうか。

そこで、沖縄戦についてちょっと詳しく触れてみたいと思います。

太平洋戦争の始まりと経緯

沖縄戦を知るにあたって、まずは太平洋戦争のことを説明します。
1939年ドイツがポーランドを侵略し、ヨーロッパやアフリカで戦争がはじまりました。
アメリカ・フランス・イギリス・ロシアの軍とドイツ・日本・イタリアの軍との戦いで、第二次世界大戦といわれました。

その流れで、2年後の1941年12月8日に日本軍がアメリカの太平洋艦隊基地であるハワイの真珠湾を攻撃したことで、また口火が切られたのが「太平洋戦争」です。太平洋戦争は日本軍とアメリカ連合軍との戦いでした。

日本軍は翌年の1942年前半にマニラとシンガポール、ジャワ島を占領し優勢でしたが、6月にミッドウェー海戦で、アメリカの基地と機動艦隊を狙ったときに返り撃ちに遭い、空母や航空機、多くの兵士たちの命を奪われ、だんだん力を落としてきました。

1943年のガダルカナル島での戦いでも2万人の兵士を失い、マキン・タワラ両島の戦いでも3日で全滅するほど日本軍は力を失っていました。

1944年のインパール作戦では無謀な作戦で物資が不足して3万人の日本兵士が死亡し、病気になった兵士も4万人にのぼりました。その後マリアナやサイパン、レイテでも日本軍は全滅したのです。

1945年になりアメリカ軍が硫黄島に上陸して来て、日本軍は1か月半必死に戦うも2万人もの死者を出しました。
その後アメリカ軍は沖縄に上陸をしてきたのです。

アメリカ軍が沖縄に上陸 -沖縄戦-

1945年3月23日からアメリカ軍が沖縄に上陸してきました。アメリカ軍の兵士は約54万人で、日本軍は沖縄の一般住民や学徒たち、朝鮮から連れてこられた朝鮮人も含めて11万人ほどの軍でした。
アメリカ人ははじめに、嘉手納から読谷村にかけての海が真っ黒になるほどの数の艦船から、11万発もの砲弾を撃ち込んできました。その後沖縄本島を南北に分け、北の方に進んでいったのです。

北部に進軍した後は南部に進み、5月には司令部がある首里にまで日本軍を追い詰めました。司令塔は南端の摩文仁に移されましたが、そこでも激しい戦いが起こりました。
住民たちの避難場所と戦闘地域が区別できないほど混乱して、多くの住民を犠牲にしました。
それでも沖縄戦が続いていたのは、日本軍の上部が本土への侵入を少しでも遅らせようとし、アメリカ軍を沖縄に長く留めさせようとしたためだといわれています。
この当時の県知事は、住民が巻き込まれないように日本軍の南部撤退に強く反対し、司令部に訴えていたのですが、聞き入れてもらえなかったということです。

6月19日にアメリカ軍の最高責任者が戦死するとアメリカ軍が力を増し、弱い立場の女性や子供、高齢者まで無差別で殺すようになり住民の犠牲者の数がさらに多くなりました。

6月18日、19日に日本軍と一緒に戦った学徒兵や少年兵たちに突然の解散命令が出て、戦場に投げ出されたためにどうしてよいかわからず自決した人もいました。

沖縄戦は6月下旬まで続きましたが、司令部の司令官と参謀が6月22日に亡くなったことで、一応激しい戦争は終わりとなりました。
沖縄戦で犠牲になったのは約11万人の兵士の中の約9万人でした。

しかし小さな攻撃は続き、結局沖縄の日本軍が降伏文書に調印をしたのは、日本本土が終戦を迎えた8月15日より後のことでした。

ひめゆり学徒のこと

沖縄戦では現在の高校生や高等女学院、師範学校の生徒も駆り出されました。女子学生は兵士たちのけがや病気の世話をしたり、日本軍に必要なものを運んだりする「ひめゆり学徒隊」として約240名の女子学生が参加し、戦渦に巻き込まれて多くの学生たちが死傷しました。

「ひめゆり」という名称は、沖縄第一高等女学校の愛称「おとひめ」と沖縄師範学校女子部の「しらゆり」からつけられたものです。
戦争になるまでは普通に学生生活を送っていた女子学生たちが、急に負傷した兵士の世話や亡くなった兵士の埋葬などを行わなければいけませんでした。一部が飛んでなくなったり、壊死してウジ虫が湧いたりする腕や足の手当てや、兵士たちの糞尿の後始末もひめゆり学徒たちの仕事だったのです。

6月18日に突然解散命令が下されました。アメリカの捕虜になってはいけないといわれて集団自決をした10名の生徒を含め、最終的に戦死した生徒は半数以上の136名でした。

対馬丸のこと

沖縄戦が始まる1年前に、日本政府は沖縄が戦地になることを予想し、子どもたちが巻き込まれないように台湾に避難をさせる計画を立てました。しかし制海権を失ったため台湾には行けませんでした。
そこで長崎に向かうことになりました。1944年8月21日に1700人の子どもたちを乗せて出港したのですが、そのことを知ったアメリカ軍が鹿児島県悪石島の沖合で潜水艦から魚雷で攻撃し、対馬丸を沈没させ1500人もの命が失われたという事実もあります。

太平洋戦争といえば大空襲や広島・長崎の原爆を想像する人が多でしょう。しかしその前には沖縄で激しい戦いが起こっていて、兵士や住民など含めて12万2千人もの犠牲者が出ていたのです。

犠牲者の中には、朝鮮から連れてこられた朝鮮人も300人以上含まれているといわれています。

沖縄本土のほぼすべてが焼け野原となり、子どもたちや女学生などを含めて多くの住民も犠牲となった戦争です。

戦争が長引いたのは、アメリカ軍が本土に上陸するのを少しでも遅くするための日本政府の作戦だったといわれています。

日本本土にも大きな傷跡を残した戦争ですが、沖縄でも住民をたくさん巻き込んで激しい戦争があり、本土のために長期戦になってくれていたことを忘れてはいけないのです。

 

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