対馬丸はなぜ狙われた?生き残った先生から海に散った子どもたちへの思い

大きな悲劇を残した第二次世界大戦

なかでも沖縄は、アメリカ兵と日本兵が直接戦う「戦場」と化し、大人も子どもも大変つらい体験をしています。

そんななか、少しでも子どもたちを戦争に巻き込まないよう、長崎に疎開をするために出港した船が「対馬丸」です。

しかし、対馬丸は航海中に沈没させられてしまうのです。

子どもたちの付き添いで対馬丸に乗っていた先生が、2022年9月29日に97歳で脳梗塞のため亡くなれました。

その先生が編んだ「レース」が、対馬丸記念館に展示され、追悼されています。

そのレースには先生の深い思いが込められています。
それはどのような思いなのでしょうか。

そして対馬丸がなぜ沈没してしまったのか、解説してみます。

対馬丸とは?

(画像:Wikipediaより)

対馬丸は、主に子どもたちを疎開させるための船でした。

【疎開】
敵襲・火災などによる損害を少なくするため、集中している人や物を分散すること。

那覇港から長崎に向かって出港したのですが、航海途中、鹿児島沖で、アメリカ軍の潜水艦からの魚雷攻撃によって大爆発を起こし沈められたのです。

対馬丸には、那覇国民学校の児童と付添人、1,661名(1,778名という説もある)と乾繭とゴマなどの荷物、それに86名の乗組員が乗っていました。
そのうち乗員乗客合わせて1,484名の命が奪われ、生き残った児童はわずか59名でした。

1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いが終わったあと、アメリカ軍は(北海道と東北北部以外の)日本のほぼ全土をB29の空襲で攻撃することができるようになりました。

「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請を受けて、政府は沖縄県知事に「老人や婦女、児童計10万人を本土か台湾に疎開させるように」という通達を出したのです。

沖縄本島には戦うための兵士や軍需物資も必要なので、船を使って往路は兵士や物資を乗せ、復路は疎開者を乗せることになりました。

子どもたちの親からは、疎開には軍艦を使ってほしいという声が上がりましたが、日本海軍には軍艦を使う余裕がなく、呉練習船体や台十一水雷戦隊以外は、C船といわれる船舶運営会の船や自営船が使用されることになり、対馬丸もC船のうちのひとつ(貨物船)でした。

とても大きな船ですが、自転車と同じくらいのスピードしか出ない古い船でした。

子どもたちに疎開を勧めてはいたものの、実際は知らない土地に行かせることや戦禍の海を通る可能性が高くて危険だということで疎開をためらう人が多く、希望者はなかなか集まりませんでした。

最終的には、学校の校長や隣組を通じて疎開者を半強制的に集めた形になりました。

対馬丸という船自体は、対潜水艦作戦能力としては不十分ながら、事件が起きるまでは特に問題なく航海をしていました。

1944年8月21日、台風接近により風雨が激しかったのですが、対馬丸は同じ疎開船の暁空丸と和浦丸がナモ103船団となり、護衛船の蓮と宇治と共に那覇を出港しました。

対馬丸の乗客は、兵員収容区画として改装されていた船倉で寝泊まりすることになりましたが、そこに出入りをする手段は階段が一つと緊急用の縄梯子だけでした。

それでも子供たちは、甲板に出て和浦丸を見たり、ヤマト(内地)で雪が見られるのを楽しみにしていたりして楽しく過ごし、乗組員たちも子どもたちに付き合っていたそうです。

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対馬丸に起こった悲劇

8月22日4時10分、アメリカ海軍は、ナモ103団の進む航路をほとんど知っていて、ボーフィンというアメリカの潜水艦がレーダーでナモ103団を探知しました。

そしてナモ103団が、重大な任務の船団だということを確信し、夜間に攻撃をすることを決めたのです。

8月22日になったばかりのころ、対馬丸の船長と陸軍少尉の輸送指揮官が船長室で議論をしていました。

船長は予定航路の危険場所を知っていたのでジグザグに進むことを主張、一方で指揮官は船団から離れてしまうことと遅れて到着することを懸念し、直線で進むことを主張していました。

結局「軍の命令」ということで、直線コースが採られました。

10時34分、ボーフィンは一度浮上しましたが、その時はナモ103団を見失い、次に見つけたのは12時54分ごろでした。

それからボーフィンは、速度を調節しながらナモ103団への接触を試み続け、19時58分に、鹿児島県のトカラ列島にある平島と諏訪之瀬島の間にある海峡の手前で21時30分に攻撃を開始することに決めたのです。

対馬丸の船内では、子どもたちに救命胴衣を着用するように指示し、3分の1の子どもたちは甲板の上のいかだで寝ることになりました。しかし雨が降ってきたので、船倉に入る子もいたり、疲れて元気のない子どももいたといいます。

21時22分、ボーフィンはナモ103団の全体像を捉え、まずは艦首から魚雷を対馬丸と暁空丸・蓮に、面舵で方向転換をしたあと艦尾から和浦丸と宇治に魚雷を発射するという計画を立てました。

そして22時9分、計画通りに攻撃を始め、「魚雷発射後すぐに連は粉砕し対馬丸も沈み始めた」とボーフィンは観測していたのですが、実際には対馬丸だけにあたったようです。

対馬丸は見張り員が魚雷発射を見て、すぐに反撃の砲撃をしようとして、「取舵一敗、両舷全速前進」と指示したが、1本は対馬丸の船主前方をかすめるも、続く3本が第1・第2・第7船倉に、さらに別の魚雷が第5船倉に命中しました。

船内には海水が流れ込み、縄梯子は流されて階段もすぐに水に浸かり使えなくなりました。

暑さに耐えられずに先に甲板に出て行った子や、早めに階段を上った子は船倉から抜け出すことができました。

しかし船倉で寝ていた子どもについては引率者が蹴ってまでして起こしましたが、うまく梯子や階段を上ることができずなかなか船倉から脱出できない子もいました。

とにかく子どもたちを船の中に残すことなく、海に飛び込ませるように必死だったようです。

魚雷が命中してから11分後の22時23分ごろ、対馬丸は大爆発して沈没してしまいました。

海の中で浮かんで生き残った人たちは、台風による風雨と荒波の中、いかだで漂流して眠気やのどの渇き、錯覚などと戦いながら救助を待っていたということです。

対馬丸と共に那覇を出港した、和浦丸や暁空丸、蓮と宇治は対馬丸が沈没した区域から遠ざかって行きました。

本来なら、他の船は漂流している子どもたちを救助すべきでした。

しかし9か月前の12月21日に、同じような区域で魚雷に合った貨客船があり、救助活動をしていた他の船も魚雷にやられたという事件があったので、疎開児童たちの被害者を増やさないために、あえて救助を断念し、目的の長崎の方に向かったということです。

生き残った人たち

生き残った子どもや付添人たちは、船員たちの指示でいかだに乗り、漂流していました。

中には力尽きて亡くなってしまった人もいますが、トカラ列島の無人島に漂着したり奄美大島や指宿の漁船に救助されました。

8月23日に救助されたのは児童・民間人83名、兵士7名・乗組員21名で、翌24日には児童・民間人90名、兵士13名・乗組員33名ですが、最終的に生き残った児童は59名と言われています。

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糸数裕子(みつこ)さん死去のニュース

https://news.yahoo.co.jp/articles/fdfe618f90c2260eeb856e458322594b5c724bd8/images/000

糸数裕子さんは昭和19年、19歳の時に国民学校の13人の子どもたちの引率教員として対馬丸に乗り魚雷攻撃に遭いました。

沈む対馬丸から海に投げ出されましたが、助かってよかったのですが・・・

子どもたちは全員、魚雷にやられ海に散ってしまったのです。

その後の糸数さんの人生は、自分だけ生き残ったことに負い目を感じ続ける日々でした。

また学校側の立場として子どもたちに疎開を勧めたので、「親から恨まれている」と思い、目立つ行動をしたり慰霊祭に出ることもできなかったそうです。

三十三回忌を迎え、教え子との思い出や体験を語り始めましたが、負い目は消えることはありませんでした。

2014年の慰霊祭に天皇陛下が沖縄に行かれた時も、「両陛下の前に出る資格はない」と言って出席しませんでした。

その代わり、子どもたちへの思いを込めてレースを2枚編み、1枚は祭壇の所に、もう1枚は両陛下に進呈したということです。

糸数さんが亡くなったあと、教え子でもあり対馬記念会の理事でもある外間さんは、「子どもたちを思って一針一針編んだのだと思う」と、糸数さんを偲んで、記念館の一階展示室にレースを展示しました。

晩年糸数先生は、「子どもたちが毎晩枕元に現れる。もうすぐ会える。」と話していたそうで、外間さんは、「レースの写真を棺に入れて子どもたちへのお土産にしてもらおうと思う」と話し、学芸員の堀切さんも、「生存者が深い苦しみを抱えて生きてきたことを伝えるために活用していく」と話しています。

まとめ

糸数さんは19歳のころに対馬丸で辛い体験をし、それから97歳で亡くなるまでずっと子どもたち、その親たちに負い目を抱えて生きてきたのですね。
長い間お疲れさまでした。

戦争は命を奪うだけでなく、生き残った人の心も奪ってしまいます。

糸数先生だけでなく、戦争に行って帰還した多くの人が、生き残ったことに対して負い目に感じていると聞いたことがあります。
戦争に殺されても生き残っても、どちらにしても辛い思いをしなければいけない・・

戦争はやはりしてはだめです。

対馬丸記念館、私も15年ほど前に、家族で行ったことがあります。
当時の子どもたちがどんなに無念だったか、怖い体験をしたのか、本当にショックを受けたものです。

沖縄に行く機会があれば、「対馬丸記念館」、それと関連して「ひめゆり平和記念資料館」に行かれることをお勧めします。
沖縄戦について知ることができます。

対馬丸記念館のHP

http://tsushimamaru.or.jp/

ひめゆり平和記念資料館のHP

https://www.himeyuri.or.jp/JP/top.html

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