安倍晋三元総理大臣の功績は?国葬儀に寄せて安倍晋三氏を振り返る

令和4年7月8日、日本中に大ニュースが流れました。

安倍晋三氏が、参議院銀選挙に出馬する奈良県の立候補者の応援演説をしているときに、何者かに銃で撃たれ心肺停止」というニュースでした。

「え?どの安倍さん?」と目や耳を疑った方も多いのではないでしょうか?

結局その日のうちに亡くなられ、9月27日に国葬儀が行われることになりました。

亡くなったときは、銃で撃たれたことが衝撃的過ぎて、国民のほとんどが驚きと悲しみにくれましたが、月日が経過して安倍氏の今までのことが取り沙汰されるようにもなり、国葬儀に反対をする人も国民の半数くらいいるといわれています。

そこで今回は、安倍晋三さんが内閣総理大臣だった時、どのような活動をされ、どのような功績を残されたのか、また現在も批判を浴びているようなこととはいったいどのようなことなのか、振り返ってみたいと思います。

安倍晋三氏のプロフィール

まずは安倍氏がどのような方だったのか、生い立ちから内閣総理大臣になるまでの経歴を紹介します。

  • 名前:安倍晋三(あべしんぞう)
  • 生年月日:1954年9月21日
  • 没年月日:2022年7月8日(享年67歳)
  • 出身地:東京都新宿区
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親族

父は毎日新聞の記者で内閣官房長官や総理大臣秘書も務めた政治家「安倍晋太郎」。

母は、昭和32年から35年に内閣総理大臣を務めた「岸信介」の長女、書家。

兄は会社員。

弟は生後間もなく母方の実家「岸」家の養子になる。衆議院議員、防衛大臣(2020年9月12日から三期にわたり2022年8月1日まで務める)

母方の祖父「岸信介」は、第56、57代内閣総理大臣で、第61から63代まで総理大臣を務めた「佐藤栄作」の兄。(岸信介はもともと佐藤家の次男。佐藤家は山口県で、長州藩の藩士だったといわれている。)

経歴

成蹊小学校・中学校・高等学校・成蹊大学の法学部政治学科を卒業。

23歳(1977年)より英語を学ぶため渡米。

1979年に帰国後、神戸製鋼に入社(ニューヨーク事務所と加古川製鉄所、東京本社で3年間勤務)。

1982年より外務大臣だった父「安倍晋太郎」の秘書となる。

1987年森永製菓社長の長女、昭恵さんと結婚。

1991年に父が急死。

1993年衆議院議員総選挙で山口1区から出馬し初当選し、清和政策研究会に所属。

2000年、森喜朗内閣で内閣官房副長官に就任、2002年9月30日までの第一次小泉内閣まで続く(拉致問題で北朝鮮にも同行し拉致被害者5人が帰国)

2003年小泉総理大臣の抜擢で「幹事長」になる(自民党内で派閥の長が配下に配る活動資金『餅代』『氷代』を廃止、自民党候補者の公募制の一部導入を実施)

2003年9月から党幹事長代理→第三次小泉内閣で内閣官房長官として初入閣

2009年9月20日、自由民主党総裁となる。

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第一次内閣総理大臣時代(第90代、2006年年9月26日~2007年9月26日)

戦後最年少の内閣総理大臣が誕生しました。

安倍内閣は、小泉内閣の時に靖国神社の問題等で冷えてしまった日中・日韓関係を改善することに務めました。

中国の胡錦涛国家主席、後日には韓国の廬武鉉(ノ・ムヒョン)大統領とも会談しています。

核実験を行った北朝鮮に対しては、「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」という非難声明を出し、国連の安全保障理事会で可決させて、厳しい経済制裁を実施しました。

しかし2006年の後半には、安倍元総理大臣が任命した税制会長や内閣府特命担当大臣に、愛人問題や架空事務所費計上問題などのスキャンダルが発覚するという問題も起こっています。

2007年の3月には、ワシントンポストに「安倍総理大臣は、下がってきた国内の支持率を回復するために、13歳の時に誘拐された少女を含む拉致被害者を利用してきた」と批判されました。また慰安婦問題の謝罪に消極的だともいわれました。

ところがその時、安倍元首相はアメリカに赴いて、日米関係は強固なままだということをアピールしています。

沖縄の基地問題で沖縄特有の問題に直面した時も、参院選の選挙で自ら沖縄に赴いて自民党無所属の候補者の応援演説を行うなどバックアップに務めました。

5月には農林水産相の松岡氏が、かねてから事務所費や光熱水費問題、献金問題などの疑惑が浮上し、マスコミでの報道が続いていた中、議員宿舎内で首を吊って自殺をしたという事件も起こり、6月には安倍政権は小泉政権以来、支持率が最低になったと報じられました。

そんな中で、ハイリゲンダムサミットに参加し、地球温暖化の対策を示し、日本人拉致問題を解決すると発表しています。

しかしまた7月3日、防衛大臣の久間氏が「原爆投下を「しょうがない」と言ったことで、久間氏には厳重注意をしましたが、結局久間氏は辞任し、小池百合子氏が後任になったということもありました。

さらに2007年の参院選の活動が始まった早々に、松岡氏の後任で就任した農林水産省の赤城氏にも事務所問題が発覚しました。

そのあと新潟中越地震が起こり、すぐに演説をやめて現地入りをするなどして被害者に寄り添いました。

これらのように、安倍氏自身の悪評が出たり選出した閣僚の中でトラブルが起こったりするたびに、めげることなくサミットに参加したり国民に寄り添うなど積極的な行動をとっていました。

しかし、参院選で自民党以外の党に議席を取られ自民党は大敗してしまったのです。

そのため、自民党内でも退陣を迫られ、アメリカでも慰安婦問題で日本に謝罪を求める決議がされるなど安倍内閣は苦境に立たされることになりました。

そのころ安倍氏自身も持病の潰瘍性大腸炎が悪化して体調不良が続くようになりました。

そんな中でも「内閣改造」を実施しましたが、改造してすぐまた閣僚の不祥事もあり、9月12日には「意思を貫くためには体力の限界」と「テロ特措法の再延長を進めて行くには自分ではなく新たな首相の方が良い」という理由で辞意を表明し、26日に辞職をしたのです。

第二次内閣総理大臣時代(第95,96、97代、2012年12月26日~2020年9月16日)

 

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体調も回復し、2012年12月の衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、安倍氏が再び内閣総理大臣に選出され、第二次安倍内閣が誕生しました。

まずは2020年夏季のオリンピックで東京招致委員会の最高顧問になりました。プレゼンでは原子力発電所の汚水漏れについて質問がありましたが、「東京には何の影響もない」「私が責任を持って抜本解決します」と答えています。

二回目の安倍内閣は、デフレ対策が主な目標でした。

そのため早速安倍政権は、物価が下がり企業や店舗の利益が減るデフレから脱却することを強く意思表示していました。

「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」の”3本の矢”を柱とする「アベノミクス」と言われる経済政策に力を入れました。

「大胆な金融政策」とは、それまで独立していた日本銀行に対し、大量のお金が世の中に出回るように主張するという政策です。そのためには日銀が、民間の銀行の国債を大量に買い取ってその代金を民間銀行に支払うことになります。

民間銀行はそのお金を企業や個人に貸し出し、社会全体で投資や物の購入を増やしてお金を回していくという政策です。

「機動的な財政政策」というのは、東日本大震災の復興や、地域活性化のための公共事業などに費用を使ってお金を回すという政策です。

「民間投資を喚起する成長戦略」というのは、産業の新陳代謝の促進や人材力の強化、雇用制度の改革など7つのテーマを掲げてテーマ別に会合を開き、2013年6月までに具体案をまとめるというものでした。

結果的に「アベノミクス」は成功だったのか、失敗だったのか、判断しにくい状況になっています。

株価が上昇し、失業率は減少したことは成功といえますが、実際の国民生活に何らかのメリットがあったのかと言えば、「賃金が上がったわけでもなく、経済的に潤った」わけでもなく実感がないという人がほとんどなので、庶民から見れば成功ともいえないのが現実でしょう。

次に安倍政権時代の大きな事業は、「新型コロナの感染」への対策でした。

突然世界的に新型コロナウィルス感染症が拡大し、緊急事態宣言を出したり、外国人の入国制限をしたり、無償で各家庭に2枚ずつ、マスクを配るなどの措置をしました。

その他、安倍元総理大臣は外交や少子化問題など、数多くの案件に対処をしてきたことは否めません。

安倍政権への不満

7年半という長い期間、内閣総理大臣として日本を引っ張ってきましたが、批判もたくさんありました。

在任中には、アベノミクスに関しては、国民にとってはあまり景気が良くなったと実感ができなかったことやコロナ対策が遅いなどの批判がありました。

また、「森友問題」や「桜を見る会」に関しても、はっきりとした答弁がなく真実がわからないままで終わり、国民としても消化不良のまま終わっています。

主にこれらのことが批判のもとになっていると思われますが、それぞれの立場でまた違う不満もあったかもしれません。

国葬に対する批判

安倍晋三元総理大臣が演説中に銃で撃たれて亡くなったときは、国民の皆が驚き悲しみました。

長きに渡って日本の政治に携わった方が、同じ日本人に銃で撃たれるとは・・
本当にびっくりしましたね。

その時なら国葬にしても、さほど批判はなかったのではないでしょうか。

しかしその時から3か月近く経過し、その間に安倍元総理大臣の功績よりも批判的な情報が出回り、「そんな元首相に莫大な費用をかけて国葬にする必要がない」という声が多くなってきました。
またイギリスのエリザベス女王の国葬もあったので、さらに「安倍氏は『国葬』に値しない」しまいには「民衆の反対の声が聴けないなら、民主主義に反する」として各地でデモも行われました。

まとめ

安倍元総理大臣は長期間にわたり、たくさんの政策をし日本を引っ張ってきたこと、外交もうまくやろうとしていました。

ただ、いつもはっきりとした口調で答弁をしていたというイメージのある安倍元総理大臣ですが、内容としては明確ではなかったり、ごまかしたりすることも多かったかもしれません。

そのようなところも、安倍元総理批判と今回の国葬反対の一因だったのでしょう。

そして「国葬反対」の一番の理由は、莫大な費用が使われることです。
国民のほぼ全員が願う国葬ではなかったようなので、せめて社葬のように「国会葬」のような形で行われた方が良かったのかなとも思いました。

しかし、誰もができないようなことを持病と戦いながら頑張って、最後は射殺されてしまった方なのに、国葬になったばかりに死後まで多くの批判を浴びて気の毒だと思うばかりです。

安倍元総理大臣が、衝撃的な亡くなり方をされた後、その衝撃が冷めやらぬうちに国葬を実施していれば、反対運動もさほど出なかったのではないでしょうか。

安倍晋三元総理大臣のご冥福をお祈りいたします。

【追記】国葬を見た感想

この記事を書いた後に、国葬が行われました。

会場となった武道館には、あふれんばかりの人が集まり、国葬がしめやかに行われました。

なかでも菅前総理大臣の「友人代表の弔辞」は多くの人の目を潤ませたことでしょう。
昭恵さんも泣いていましたね。

「総理、あなたは『今日よりも明日がよくなる日本を創りたい』という強い信念を持っておられた」、「『日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ』が口癖でした」と菅さんは話しておられました。

また「あなたはいつも正しかった」「何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは我が国日本にとっての真のリーダーでした」と・・

2回目の安倍政権になる前、安倍晋三氏は、1回目に病気を理由にやめたことに負い目を感じ、2回目の出馬には消極的だったそうですが、銀座の焼鳥屋に一緒に生き、そこで3時間も説得して安倍氏の首を縦にふらせたのは、菅前総理だったそうです。

菅前総理にとってその時のことは「人生において最大の達成として誇らしく思うであろう」とのことでした。

そんな裏話も交えながら、同じ政治家として、また友人として、とても心のこもった弔辞が読まれ、そのあと盛大な拍手がなり響いていました。

この弔辞で、安倍元総理大臣は、本当に日本を愛し、日本を良くしようとしてくれていたことや菅前総理大臣たちとの交流の様子が分かったような気がしました。

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