有吉弘行、マツコ・ラックス、夏目三久出演のテレビ朝日の人気トーク番組「怒り新党」の名物コーナー「新3大○○」では毎回番組独自の目線で様々な3大を紹介しています。
今回の3大は「新3大“悲運のエース”伊藤智仁の記録より記憶に残る投球」が紹介されました。
伊藤智仁は1993年~2003年にヤクルトで高速スライダーを武器に活躍したピッチャーで、プロ1年目の1993年に新人賞を獲得している。有吉いわく野球好きの人達からは伊藤智仁が一番のピッチャーだと言う話を良く聞くそうです。ヤクルト野村監督がゴジラ松井を1位指名するはずだったが、伊藤智仁を指名した。
3大の① 1993年6月9日対巨人戦
当時22歳だった伊藤智仁は公式戦初対戦である強力打線の巨人を圧倒。ストレートと同じフォームで投げられる高速スライダーで三振を量産。8回を終えて奪三振は15。セ・リーグ記録の16個、日本記録の17個を狙える状況になります。しかし、味方の援護はなしで0対0。そして9回、金田選手、江夏選手と並ぶセ・リーグ記録16奪三振を記録。あと一人で日本記録。
しかし、次の対戦相手は篠塚和典選手。篠塚選手は過去に2度も首位打者を獲得した天才打者。ベテランのプライドを捨て篠塚選手は何度かタイムをとり伊藤選手のタイミングを狂わせます。そして伊藤選手が投げた初球をとらえホームラン。16奪三振という輝かしい成績を残したはずの伊藤智仁はまさかの負け投手となってしまいます。
3大の② 1993年6月27日対阪神戦
6月9日の巨人戦を引きずる事なく、その後の試合では素晴らしい活躍を見せます。6月3日、6月16日、6月22日と見事3完封を行っています。6月27日対阪神戦も完封目前までゲームを進めますが、この日の試合も味方からの援護はなし。9回に同点に追いつかれてしまいます。6月には5試合にも出場し相当な玉数を投げてバテ気味の伊藤投手ですが、野村監督は全く交代させる気配はありません。
延長も伊藤投手が投げ続けます。延長13回を投げきった頃には186球もの数を投げていました。そして、14回表ヤクルト攻撃で2アウト満塁、伊藤の打順になりましたがここで代打ハドラー。打てば一発逆転、伊藤智仁は勝利投手へとなれたのですが、ハドラーの打球はファウルフライでアウト。1対1のまま引き分けで試合終了しました。更に6月投球数が響いてかこの試合の2週間後、ヒジを痛め登録抹消されてしまいます。
3大の③ 2003年10月25日対巨人2軍戦
93年に故障してから伊藤智仁は3年間のリハビリ生活に入ります。その後再び1軍にマウンドへ戻り故障前より早い直球(153km)にファンは歓喜しますす。1997年には7勝19セーブで日本一に貢献し「カムバック賞」を受賞。しかし、1999年には右肩2度目の手術、2001年に3度目の手術、2002年復帰初登板で右肩亜脱臼、ついに戦力外通告を受けてしまいます。しかし伊藤智仁は現役続行を球団に訴え年俸88%ダウンの1000万円で球団と契約を交わします。しかし試合にはあがれず1年間ひたすらリハビリの毎日を過ごします。
そして、対巨人2軍の練習試合に登板。練習試合にも関わらず伊藤智仁投手を一目見ようと多くのファンが駆けつけ多くの声援をかけました。しかし伊藤が投じた第1球のスピードは1軍時代の153kmとはかけ離れた109kmとなっていました。打者3人と対決した伊藤智仁選手の成績は内野ゴロ1つにフォアボール2つ。この投球内容を見た岡林投球コーチはマウンドへ駆けつけ伊藤智仁投手と話しをし始めます。岡林コーチも怪我に泣いたエースで、伊藤投手と共に苦難のリハビリを一緒に過ごしてきた戦友。そして、ピッチャー交代のアナウンスが球場内に響き渡りました。静かにマウンドを下りる伊藤智仁投手。ファン達はその意味を理解し「おつかれさま!」「ありがとう!」と声をかけました。この試合の4日後、伊藤智仁選手は引退を表明しました。