オッサンである僕が女子高生の心情を綴っている小説を読んでいるのはかなりキツい。
この“キツい”というのは単純にオッサンが女子高生の心情を綴っている小説を読んでんじゃねーよ、という外から見た時のキツさもあるし、それ以上に僕の年齢で彼女らの心情に寄り添って自己投影する形で小説を読み進めていくこと自体がキツいという意味でもある。それでもこの作品の感想を書いている方の文章を読んでいると、そのほとんどが絶賛する内容になっている。
ただ、オッサンから見ると単純に絶賛するだけでは済まない感覚も大いに存在しているので、女子高生の心情を繊細に綴った不朽の名作をオッサンの視点から読んだ場合の感想を書いていきたいと思う。
放課後の音符(キイノート)
あらすじ
大人でも子供でもない、どっちつかずのもどかしい時間。まだ、恋の匂いにも揺れる17歳の日々―。背伸びした恋。心の中で発酵してきた甘い感情。片思いのまま終ってしまった憧れ。好きな人のいない放課後なんてつまらない。授業が終った放課後、17歳の感性がさまざまな音符となり、私たちだけにパステル調の旋律を奏でてくれる…。女子高生の心象を繊細に綴る8編の恋愛小説。
感想
女子高生の視点から見る青春短編集。
全ての話には大人に憧れる主人公が登場して、同じ女子高生なのにその憧れの対象になる大人な少女が登場する。集団で同じことをする同級生たちの中で、ポッカリ浮いてしまう大人な少女と主人公が触れ合うことで、大人と子供の狭間で揺れる女の子の繊細な心を描ききっている。
そんな大人な女の子たちの行動や言動は、2017年現在から振り返ってみると時代背景的に古めかしさを感じてしまう部分があったり、その言葉自体がとても大人を演じているように見えたりもするので、ちょっと気恥しく感じてしまうものの、30年も前の作品なのに女子高生の心情の本質的な部分、例えば、恋や友情に対する未成熟な距離感などは、現在と比べてもあまり大きく変化していないのかもしれないと感じさせてくれるのは凄いことだと思う。
この作品を今の女子高生が読んだらどんな感想を抱くのかと、興味を感じさせてくれるのと共に、少女たちの幼さから生まれる愛おしさが、未成熟な女子高生の魅力を全面に押し出してくれている名作だと思う。てか、女子高生って言葉をこんなに連発していると、それだけで犯罪を犯しているような気になるのは何故だろうか、笑。
読み手の年齢
作品を読んだ多くの方の感想は、
- いつ何度読んでも素敵な作品。
- 自分の高校生時代と比べて大人っぽい。
- 高校生の頃に読みたかった。
といった好意的なものをよく見かける。女子高生の心情をよくあらわした名作と呼ばれるだけの事はある。ただ、僕がこの本を読んだ感想はそれら好意的な意見とは違い、もう少しシニカルな視点で彼女らを見てしまった。
僕らオッサンから見ると、主人公が憧れている大人っぽい同級生も精一杯背伸びしているように見えるので、その背伸びに対して愛しさと可愛らしさを感じてしまうのだ。酸いも甘いも嚙み分けてきた大人の女性ではないティーンの女子高生が、何もかも経験してきたかのような余裕を見せるさまが、逆に愛らしいと感じてしまうのだ。
この感覚は、上の年代から…というかオッサンの立場から振り返ることで感じる世代的な感想だと思うので、性別も含め、同世代、年下、年上と読み手の成長に合わせてかなり印象が変わる作品なのではないだろうか。
思春期の素敵な部分
作中の大人びた女子高生たちは、独特の大人びた発言をする。
それを素敵な表現だなぁと捉えられる部分もたくさんあるのだが、正直な話をすると、その表現があまりにも大人っぽいので思わず笑ってしまうこともあるので、その両方についていくつか紹介したいと思う。
まずは素敵な表現から。
子供の手段を使わない女の人は、りっぱだとは思うけれど、愛を失いやすいのではないかしら。
女性が男の前で弱さをさらけ出し、涙を見せて気を引こうとすることを“子供の手段”と言い、私は我慢してでもそういう子供の手段は使いたくないと語るカナに対して、主人公が思っていること。
「愛を失いやすいのではないかしら」という言葉のチョイスは結構レトロ感がある、笑。でも割と冷静に状況を把握しているようにも思えるので、主人公も違った意味でとても冷静で、将来的に素敵な女性になりそうだ。この表現は結構好きだったりする。
そうか、二人でキスをするということは、こういうことなのだ。男が女にするのではなく、女が男にされるというのでもなく、愛し合っている二人がキスをするということ。
また、松山先生と先輩ががキスしているところを主人公が目撃してしまった時の印象も、初々しくて素敵な表現で描かれている。たぶん誰かがキスをしている所を見ることが今までなかったんだろうなぁ、なんて想像してしまう。この文章を読むと強い処女性と共に、性に対する興味も感じてエロティックに感じる。山田詠美さんの文章からは色気があふれ出している。
思春期の気恥しい部分
続いて、読んでいて恥ずかしくなる部分。
「素敵!!宝石箱に煙草の灰を落とすなんて!!大人と少女が微妙に混じり合ってるって感じね」
時代的には高校生の喫煙に寛容だったのだろうが、家に遊びに来た雅美が部屋でタバコをふかそうとする場面がある。主人公の部屋には灰皿がないので、子供の頃から持っている宝石箱を灰皿代わりに渡したときの雅美の言葉。
大人と子供の中間である自分たちとの共通点を見つけてはしゃいでいる場面なのだが、現実的な言葉として読むと気恥しさが勝ってしまうので、詩的な表現としてとらえないと少し笑ってしまう。
ついでに、煙草を吸う理由についても語っているが、それも読んでて恥ずかしく思えてしまう。
「おいしいとは思わないわ。でも、何かが必要なの。男かもしれない。煙草かもしれない。それとも、自分自身かもしれない」
ああ、恥ずかしい。これを自分が口に出して友達に言っていたとしたら、恥ずかしくてもう会えないかもしれない。
あと夏休みに何をしていたのかを皆で話し合っている時に、マリに対しても聞くのだが、その内容も読んでいて照れる。超照れる。
「すっごい陽に灼けてるじゃん、マリ、どっか行ってたの?」
「うん、おばあちゃんのとこ」
「どこなの?」
「沖縄のはずれの島よ」
「へぇ、リゾートっぽいとこ?」
「ううん、海しかないとこ。観光客なんていない」
「えー、何してたのよ、そんなど田舎で」
「男の子に恋してた」
ああ、恥ずかしい!!
別に恋しててもいいけどこのタイミングで急に「男の子に恋してた」って言うのはやはり恥ずかしいことだと思う。ちなみに、マリは沖縄で砂糖きびを食べた時の感想として、
「太陽って、ずい分、いやらしい味を作るものだと思ったわ」
なんて言っているので、同じように読むと照れてしまう。サトウキビの味をいやらしいと呼んでしまう感じ・・・ああ、自分だったら黒歴史かもしれない、笑。
最後に
オッサンが読むとついつい笑ってしまう作品なのだが、こんな自分にも少し背伸びをしたこの作品を憧れと共に胸にしまい込むような時代があったのだと思うと、若き日のあのころからずいぶん遠くへ来たような気がしてしまう。
世代と共に読む印象が変わるこの作品は、貴方の目にはどのように映るのだろうか?