大河で注目の黒田官兵衛の名言集!

▼黒田官兵衛とは?

黒田官兵衛は現在の兵庫県姫路市(播磨国)に生まれる。黒田家は戦国大名の小寺政職に使えており官兵衛も16歳の頃には近習となり、土豪征伐で初陣を飾っている。20を過ぎた頃には黒田家の家督を継ぎ、さらに小寺政職の姪を正室に迎え、姫路城代となります。
また、当時浅井長政や武田勝頼に勝利していた織田信長を能力を評価した黒田官兵衛は主君小寺政職に織田家への臣従を進言。
その後、織田家の重臣荒木村重が信長に対し謀反を起こし、これを説得しようと有岡城へ向かった黒田官兵衛でしたが失敗。1年間幽閉される事になります。さらにこの謀反には主君である小寺政職が呼応。その後、秀吉による活躍でこの三木合戦は終結。主君であった小寺政職も織田信忠によって討伐されてしまいます。
黒田官兵衛はこれより織田家臣となり秀吉の参謀として活躍する事になります。ちなみに、黒田官兵衛と名乗ったのはこの頃からと言われています。
秀吉と共に毛利家と戦っていた黒田官兵衛ですが、京都で異変が起こります。それはかの有名な「本能寺の変」その知らせを聞いた黒田官兵衛は早急に毛利家と和睦、秀吉に天下取りを進言し中国大返しを成功させました。
豊臣秀吉の天下となった後も秀吉の側近として活躍。この頃キリスト教の洗礼を受けているが、秀吉がバテレン追放例を出した際はその令に素直に従ったと言われています。その後、家督を息子長政に譲って隠居。名前を黒田如水と改めます。
そして、豊臣秀吉が死去。日本は再び東西に分かれて戦をする事になります。この時黒田官兵衛は徳川家康方の東軍につき活躍。息子長政と共に東軍を勝利に導いた。しかし、実はこの裏で天下取りを画策していたとも言われています。
晩年、徳川家の天下となってからは中央政治には関与せず隠居生活を送り、59歳の時に京都伏見藩邸で死去しました。

▼2014年大河は「軍師官兵衛」

2014年1月から放送開始の軍師官兵衛、主演の黒田官兵衛役はV6の岡田准一、その他のキャストもとても豪華なメンバーとなっています。織田信長は江口洋介、豊臣秀吉は竹中直人、明智光秀は春風亭小朝、信長の正室お濃は内田有紀、石田三成は田中圭、黒田官兵衛の息子黒田長政は松坂桃李となっています。

▼黒田官兵衛の名言集

※ヤングマガジンの「センゴク」に登場する黒田官兵衛

秀吉様、ご運が開けましたな。天下をお取なさいませ(本能寺の変で動揺している秀吉に天下取りを進言)
天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり。
金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである。
人に媚びず、富貴を望まず。
大将たる人は、威厳というものがなくては、万人を押さえることができぬ。さりながら、悪く心得て、威張ってみせ、下を押さえ込もうとするのは、かえって大きな害である
一度に敵を千も二千も討取ることは得手者に候
まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。
大将たる者は、威(威厳)というものがなければ万人を押さえつけることはできない。こしらえごとでいかにも威を身につけたように振舞ってみても、それはかえって大きな害になる。
その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い。
世の中で主のために追腹をするぐらいつまらぬことはない。
神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし
戦いは考え過ぎては勝機を逸する。たとえ草履と下駄とをちぐはぐに履いてでもすぐに駆け出すほどの決断。それが大切だ。
四角な器にも円い器にも、水は器に応じてはいる。
分別過ぐれば、大事の合戦は成し難し。
我が君主は天にあり。
最期の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ。
その時、お前の左手は何をしていたのだ?(関ヶ原の戦いで武功を上げた息子、黒田長政が徳川家康に手を取り感謝された事をに対し言った一言。この時黒田官兵衛は天下取りを狙っていたと言われており、なぜ左手で家康を殺さなかったのかと長政を批判したと言われています。)
■水五訓
 自ら活動して他を動かすは水なり
 障害に遭いて激し、その勢力を百倍にするは水なり
 常に己れの進路を求めてやまざるは水なり
 自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり
おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて-黒田官兵衛 辞世の句-

▼黒田官兵衛紹介動画-姫路から天下に翔けた男-

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