日本で愛される定番のお寿司の種類「いなり寿司」
酢飯と酢飯を包む甘めに煮付けたお揚げとの相性は、抜群です。
いなり寿司は地方によって呼び方、形、中の具材が異なります。
今回はその中でも、関東と関西の違いを記事にしたいと思います。
いなり寿司 東西で違う形や具材など比較
広くは”おいなりさん”とも言われるいなり寿司。
調べてみると呼び方は”きつね寿司”や、”こんこん寿司”など。また関西だと”揚げ寿司”や、”しのだ寿司”とも言われるようです。
ちなみに大阪では”いなり”と呼び捨てだとか。
同じ日本でも住む場所が違えば、こうも呼び方が変わるんですね。
面白いですよね。
そして関東と関西。
いなり寿司の形の違いについて、関東では俵形が多く見られ濃口醤油でお揚げを煮付けるため、色の濃い油揚げが完成します。
一方、関西は三角形が基本。地域によっては油揚げの内側を裏返し、白の面を表側に出すところもあるそうです。
そして具材も地域によって異なってきます。
https://otonanswer.jp/post/44861/
◆引用元サイト◆
添付サイトでは、いなり寿司の違いを詳しく分かりやすく私たちに説明してくれてます。気になる方はアクセスしてみてください。
このサイトを基に、私も説明してみたいと思います。
いなり寿司の東西の違いやルーツなどに関して、全日本いなり寿司協会のPR担当者さんが語ってくれてます。
まずは東西におけるいなり寿司の違いについて、こう説明しております。
甘じょっぱい味わいが関東風だそう。基本的に具材は加えず酢飯のみ。あるいはゴマ、蓮根などを具材にする至ってシンプルなもの。
一方、油揚げと出汁の味を生かすのが関西風。中に詰める酢飯に五目を加えるのが特徴です。
形に関しては江戸時代の文献から、カットされた”棒いなり”という長い形をしたタイプが、売られている様子が記されているそうです。
貴重なその情報から担当者さんは、「恐らく、この切ったいなり寿司が、俵形の原型」と推測しております。
関西の三角形については、未だ真相は分からず。
その中でも「狐の耳」や「稲荷山」の形を似せたものとも言われているようです。
いなり寿司のルーツや東西の境界線とは?
江戸時代から明治時代にかけて。関東のいなり寿司は、油揚げに具の無い酢飯を詰めただけの非常にシンプルなものだったようです。
「天秤棒を担いで、市井を売り歩く『振り売』が基本だった」と担当者さんは述べてます。
一方の関西、薄味に仕上げ油揚げの味を生かす製法。
しかし!
この味付けに関西人は物足りなさを感じたそうで、後に酢飯に五目を加えるようになった、と考えられてます。
境界線に関しては、「すしの本」という書籍をあげ、「関ヶ原を中心に南北に走る山脈が境に東西に分かれる」と記されているようです。
いなり寿司の地域による違いの分岐点も、この山脈と考えられてます。
いなり寿司の発祥地は江戸なのか!?
いなり寿司の歴史や発祥などについては、諸説あると言われています。
まだまだ未解明の部分が多いのだそう。
担当者さんは語ります。
1937年からおよそ30年もの間、書き綴られた江戸の「守貞漫稿」という文献の第6巻に、「いなり寿司」の名称が登場と。
その内容はというと、「名古屋周辺で生まれたいなり寿司は江戸だと、天保前から売られていた」や、「油揚げの一方を裂いて、キノコやかんぴょうを刻み、ご飯に和えて詰めた」や、「安価のおかげで人気があった」等々が、古い書物に記録されてるそう。
そして担当者さん自身は「江戸」が発祥地と判断してます。
当時江戸には、地方からの単身赴任者や商売を目的に男性が多く集まってたそうで、江戸の7割が男性だったとか。
そんな男性らの食欲を満たすいなり寿司は「江戸のファーストフードだった」との考えを述べておりました。
そしてこの他にもいなり寿司に纏わる何か有力な情報がないだろうかと調べを進め、ある諸説を入手しました。
それは江戸時代の頃、油揚げが稲荷神社の前に供えてあったそうで、この油揚げにご飯を詰めたのがいなり寿司の始まり、という説。
この記事ではっきりと、いなり寿司の本当のルーツを断言することは出来ませんが、どちらの説も江戸時代が深く関係しているようです。
いなり寿司の歴史を、たどってみる旅もいいですね♪
いなり寿司 東西の違いをまとめ
手軽に家庭で作れるいなり寿司。甘いお揚げと食べやすさが魅力です。
ちなみに
青森県→赤いなり
鳥取県→ののこめし
長野県→からしいなり
と呼ぶそう。
私もいつか、東西のいなり寿司を食べ比べてみたいです笑。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。